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August 04, 2006

シニアミリアム、閉会礼拝?メッセージ(神崎典子牧師)

「行って、出会いなさい」ルカによる福音書10章25~37節 

 昨日まで、北総分区の教会学校キャンプが行われていましたが、参加されたみなさん、子どもたちもきっとよき出会いや交わり、貴重な経験ができたことと思います。お疲れ様でした。熱が出た子どももいたと聞きましたが、無事に帰って来られたこと、本当に感謝です。また、行けなかったわたしたちにもいろいろとお話を聞かせていただけたらと思います。

 さて、わたしの個人的な出来事ですが、先日、疲れからか、久しぶりにお腹にくる風邪をひきまして、寝込んでしまいました。胃が痛み、手がしびれて爪の色も顔色も青くなり、寒気がひどく、子育てはできないなと思いました。ちょうど水曜日の聖書研究祈祷会の直前でしたので、長倉牧師とみなさんは双子の赤ちゃんをあやしながら聖書を読むことになりました。その間にわたしは病院で点滴を打ってもらって少し楽になりましたが、熱は高くなり、いろいろと不安になってしまいました。その週の土曜から泊りがけで四街道教会をお借りし、学生YMCAのミリアムという集会が開かれる予定でしたのであせってしまいました。子どもたちは昼間は保育園の一時保育などで預かってもらいましたが、夜の子育てで体力は限界でした。熱が下がってお腹の痛みが和らいでくると、今度は、夜も眠れなくなってしまいました。久しぶりに会う友人たちを四街道教会に迎えてミリアムという集会に出ると思うと緊張したのでしょうか、二日間も眠れずに朝しらじらと夜が明けるころにうとうとするだけとなってしまいました。そうなると、体も心もつらくて、不安でした。

 「わたしはどうしてこうなんだろう。情けないな」と思ってあせって苦しんでいる真夜中、ふと、今はもう会えなくなっている不眠症の大切な友人のことを思い出しました。以前はその人の話を、ただ聴いていただけだったけど、何日も眠れないって、どんなにつらかっただろうと思ったのです。その人の痛みは十分には分からないけれど、何かあると時々眠れなくなるわたしは、この痛み、この弱さを、自分自身が打ち砕かれて隣人とつながっていくために神様からいただいたものかもしれないと感じました。もしかしたら、この弱さの中でこそ、誰かとつながっていけるのかもしれない、と感じました。すると、わたしの人生まるごと神様に抱えられているような安心感につつまれました。何が起ころうが、わたしたちみんな神様の御手の中にあると思ったのです。

 そして、その後も、教会の方々、ミリアムの集会に集った方々に助けられ支えられながら、感謝の時を過ごさせてもらいました。そして、弱いからこそ助けてもらって、こうしてみなさまに支えられる、つながりあえる豊かさを思いました。そもそも、学生YMCAのミリアムという女性グループのシニアの会を四街道教会をお借りしてできないかという提案があったのも、わたしが子連れではなかなか出かけられないから、みんなで子どもをみながら語りあおうとある女性が言ってくださったからでした。

 今回、ここで開かせていただいたミリアムでは、それぞれ違う女性たちの生き様に励まされました。個人的にはつらい出来事を経験しながらも、それを乗り越え政治の分野で平和と福祉のために働こうとしている女性、池袋で野宿を余儀なくされているホームレスの方たちと共に支援活動を続ける女性、男性の多い会社で、差別を感じながらも彼女らしくリーダーシップを発揮する女性、これから小さな命に寄り添い命を育もうとしている妊婦さん、つい先日、バングラディシュで行われたアジアの女性たちの会議に出席した子育て中の女性、その他にもそれぞれの人生の痛みや思いを分かち合ってくれた女性たち、わたしが駆けつけたくても駆けつけることのできないそれぞれの現場に、彼女たちがいる、その存在自体にとても励まされました。

 そして、今回身体の調子を少し崩してしまったわたしは、こうして四街道教会という共同体の中で、そのつながりと交わりの中に生かされていることをうれしく思った時、今日読んでくださいました「善きサマリア人のたとえ」を思い起こしたのです。まったく違う状況だけれども、このにっちもさっちもいかない現場で、追いはぎに襲われてボロボロになったこの人と自分自身の姿が重なり、この人がサマリア人に助けてもらったように、今のわたしは、いろんな人に助けられているなあと思うのです。追いはぎに襲われ、傷ついて、捨て置かれたこの人、祭司にもレビ人にも見捨てられたこの人が、サマリア人にあたたかく触れられ、介抱されて、どんなにうれしかったでしょうか。

 けれども、ある時には、わたしは、傷ついてボロボロになったこの人に出会わないように道の向こう側を通って行った祭司やレビ人と同じでした。池袋でホームレスの方たちと共にご飯の炊き出しをしている友人たちの活動に参加しようと、まだ小さかった上の娘と二人で四街道から池袋まで行ったときのことです。炊き出しの会場である公園へ行こうとしていたとき、池袋駅の地下で、ぐったりとして身体の具合の悪そうなホームレスの方が座り込んでいたのが目に入りました。でも、わたしは、小さい娘を連れていて、なんとなく、汚れた姿でいるその方に声をかけることができませんでした。それなのに、もうすぐ炊き出しの時間となるボランティアの方たちのところへ行くために道を急いだのです。そのときの偽善的な自分の姿を忘れることはできません。

 また、世界中が、戦争や国家間の対立に巻き込まれている今の社会において、飢えている人々、傷ついている人々のことを知ろうとしない、出会おうとしないわたしは、結果的に、道の向こう側を通ってその人を傷つけていることになってしまっているのではないでしょうか。

 イエスの視点、生きる視座はいつも、最も弱くさせられている人、最も傷つき、苦しんでいる人のところにありました。今日の箇所でも、ある律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問し、逆にイエスから「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われると、彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。そして、イエスから、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われると、彼は自分が実践していることを示そうとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と聞きました。この問いを受けて、イエスはこのたとえ話をしたのです。そして、イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家とわたしたちに問いかけています。律法の専門家が、「わたしの隣人とはだれか」と、助ける側、よい行いをする側から発言しているのに対して、イエスは、追いはぎに襲われ、傷つき、痛んでいる人を中心に、その人の立場から、「誰が、この人の隣人となったのか」と問いかけるのです。

 イエスの生き様はいつも、弱く小さくさせられた人、さまざまな病気の人と共にありました。そして、自ら、最も神に見放された罪人として、死刑囚と共に十字架に架けられていくのでした。イエスは、その生も死も、神から、人から、最も見放されたと思われるような人たちと共にあり、今もなお、共におられるのです。
 このイエスの問いかけを受け、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた律法の専門家は、その後、どうしただろうと考えさせられます。そして、彼のその後の物語は、共にイエスの問いかけを聞いたわたしたち自身が作り出していく物語でもあると思うのです。

 さて、このたとえ話で面白いと思うのは、その登場人物の意外性です。この追いはぎに襲われた人を助けたサマリア人というのは、当時のユダヤ社会において、非常に差別的な扱いを受けていたグループでした。このサマリア人とユダヤ人とは、元々は同じイスラエルの民でしたが、イスラエルが北と南に分裂し、北は、アッシリア帝国に滅ぼされ、支配される中で、このサマリアの地方は、アッシリアの政策の中で外国人が入ってきて、いろいろな民族同士が結婚していきました。サマリア人は、ユダヤ人としての純粋性が失われ、宗教的に穢れているという理由で、ユダヤ人から、忌み、嫌われて口もきかない状況だったのです。けれども、このサマリア人こそが、追いはぎに襲われたユダヤ人を助けた人としてイエスの話に登場してきます。

 そして祭司は、ユダヤの宗教と政治の中心、エルサレムの神殿で働く人々で、神と人との仲介者として、人々の罪のために供え物やいけにえをささげる職務に任命された人たちです。レビ人というのは、祭司を生み出す母体となった人々で、レビ族といわれるグループの中からしか、祭司になることはできなかったそうです。いわば、宗教的な聖なる人たちだったのでしょう。その人たちが、道の向こう側を通って行った。本来なら、民を救いへと導くはずの人々が、傷ついた人を助けられず、無視することでさらに傷つけてしまった。半殺しのめにあっている旅人、これは死とか、穢れとかをイメージしますから、祭司やレビ人は、「その人に触れない」ことで、自分たちの宗教性を守ろうとしたのでしょう。

 けれども、宗教的に穢れているとされ、その社会で差別されていたサマリア人、差別されるか、憐れみの対象であるかしかなかったサマリア人こそが傷ついた人を助けたのでした。
 イエスのたとえ話の意外性に、聞いていたこの律法の専門家は驚いたのではないでしょうか。なぜなら、この人は、自分は当然、隣人に施しを与える側、助ける側であると思い込んでいたのではないかと思われるからです。そのように、わたしは助ける側、あなたは助けを受ける側と、固定化された人との関係の中では、けして隣人との対等な出会いや、交わりの豊かさは生まれてこないのではないでしょうか。

 イエスは、この律法の専門家とわたしたちに、「行って、出会ってきなさい」とそっと励ましを与えてくださっているのではないでしょうか。あるとき、わたしたちは、自らの弱さをあらわにされた傷ついた人かもしれない、あるときわたしたちは、善きサマリア人として、誰かの隣人になれるかもしれない、あるとき、わたしたちは、この社会の中で、誰かをさらに傷つけて道の向こう側を行く祭司やレビ人である自分自身に気づかされるかもしれない。その、人と人との出会いの中で、イエスは常に、もっとも弱くさせられた人として、傷ついた人の傍らで、わたしたちを招いておられるのではないでしょうか。人と人との出会いの中に、神の国が始まっていく。みんなが変えられて、共に生きる関わりのなかにこそ、永遠の命があることを指し示し続けておられるのではないでしょうか。
 お互いに助けたり助けられたり、気づかされたり教えられたりする関わりの豊かさ、そこから、平和をつくりだしていく歩みが起こされていくのではないでしょうか。

 たとえ、今を生きるわたしたちの社会、この世界が、憎しみと分裂を生むような大きな力に支配されようとも、キリストによってその壁を打ち破る自由が与えられています。一人ひとり、あるがままに、人間として、出会っていきたい。絶望の中にこそ、弱さを分かちあい、共に生きるという希望が与えられています。

 最後に、週報の裏面に載せていますが、アイオナ共同体の讃美歌集から賛美歌の詩を紹介したいと思います。本当は歌うといいのかもしれませんが、その詩を読んでみます。  ※管理人より:一部を省略しています。

「みんなで輝く日が来る」
 3.弱い人と歩むよ その国では
  共に歩むよ その国では
  きっとそうなるさ
  神の国ではみんなかわるはずさ
(くりかえし)
  それは主イエスが それは主イエスが
  すべて主イエスが 教えてくれたことさ

しばらく黙祷いたしましょう。

※管理人より アイオナの様子は、田中牧子牧師のサイトでご覧になれます。

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