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April 21, 2011

新キ平の聖書研究の原稿

聖書:ルカによる福音書24章13-35節      
長倉 望(新潟教会牧師、東北大学YMCAシニア)

「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(ルカ24:28)
今から9年前の2002年の3月末、わたしたちの間に生まれた最初の子どもに“ゆうき”という名を付けました。この子が生まれるちょうど半年ほど前、2001年9月11日に、かの“9.11同時多発テロ”が起こったのです。テレビに繰り返し映し出されるビル崩壊の映像に驚愕しながら、またそこから始まっていったアフガニスタンへの攻撃がイラクへと飛び火していく中で、「これから生まれてようとしている新しい命が生きていかなければならない世界は一体どうなってしまうのだろう。この暴力の連鎖はどこまで続くのだろう。生きるのにほんとうに“ゆうき”の要る時代になってしまった・・・」との思いから、話し合って子どもの名前を“ゆうき”としたのです。しかも「新しい時代に必要な“ゆうき”とは、“勇ましい気持ち”ではない。むしろ、困難の中にある人を放ってはおけないとの“友のための祈り”に押し出される一歩が必要だ。そしてそのような一歩は、大勢の“友の祈り”に支えられ励まされてはじめて踏み出せる一歩なのではないか・・・」そんな思いを込めて「友祈」という字にしました。そんな友祈が生まれたのは、ちょうど受難週の水曜日でした。イエス・キリストがゲッセマネで祈り、十字架の道へと踏み出された姿を思い起こしました。

今回の震災で何度も仙台と新潟を往復する車中、その時の気持ちを思い出していました。特にまだ被害の全容がわからない中、福島第一原発の事故が伝えられる中で、先遣隊が引いてくれた一筋の糸を頼りに仙台に向かった時、9年前に自分たちが新しい命の名に込めた祈りに、今度は自分自身が促され、励まされているように感じたのです。実際、初めて仙台に出発する時は、新潟教会の早天祈祷会のメンバーと事務室のメンバーが祈りをもって送り出してくれました。また、その後次々と物資を新潟教会に送って下さった全国の方々の切なる祈りを感じました。その祈りにどれほど励まされたことでしょう。祈りが導く道・祈りが切り開く道があるのだ、ということを改めて知らされました。

片岡謁也牧師(東北教区宣教宣教部委員長)が、敬和学園高校入学礼拝の保護者代表挨拶で、東北教区被災者支援センター・エマオに新潟地区の牧師たちがなんども物資輸送をしたことに触れて「あの“エマオへの道”に神さまが共にいてくださったと信じています」と語られたことを後日聞きました。確かにそうだったのかもしれない、と振り返って思います。そして、そうであるならば《イエスは、なおも先に行こうとされ》ているに違いない、とも思います。だから、これからも、主イエスの祈りに導かれ、多くの人たちと祈りを紡ぎ合いながら、共なる歩みを重ねたい、と願っているのです。

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