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January 06, 2014

学生YMCA125周年記念フォーラム開会礼拝説教

学生YMCA125周年記念フォーラム開会礼拝説教「神の似姿」聖書:創世記1:26-27節
2013・11・23 石井智恵美

Ⅰ.学生YMCAとの関わり
 はじめての方も、なつかしい方々もお目にかかれて嬉しいです。
今日は、思い出話とそして現在、未来の話を、聖書に聴きながらしてみたいと思います。
大学を卒業してから放浪の期間が長かったのですが、現在は、川崎にある日本キリスト教団まぶね教会で牧師をしています。立教大学や農村伝道神学校でも週に一回講師を務めています。
さて、私が学Yで活動していたのは、1980-1987年。大学2年生(ルーテル神学大学)から、大学院(同志社大学)修了時までの7年間になります。大学2年生の夏に、夏期ゼミに参加したのが、学Yに加わったはじめです。当時私は東京の三鷹にあるルーテル神学大学の学生で、そこでは御隣のICUと東神大と三つで大沢キャンパスYMCAとして活動をしていました。その夏期ゼミでは今、学生部委員長をしている瀬口昌久さんが委員長をしていました。皆の熱い議論に圧倒されて「失語症」に陥ってしまう経験をしました。そんな私が何故か翌年の夏期ゼミの事務局長に選ばれてしまい、全国の学Yを訪問することになりました。そして、その夏に開かれたWSCF(世界学生キリスト教連盟)のアジア太平洋地域委員会が、水道橋の在日大韓YMCAで開かれて、どういうわけか3年任期の常置委員に選ばれて、「日本人は英語などできなくてもいい」と嘘ぶいていた私が、英会話を必死で勉強し始めました。結局大学院の1年まで、その委員を務めました。私はいろんな意味で、学Yの活動にはまりました。それはそれまでの私の信仰の歩みが前史としてあったからでした。

 まず、私は幼い頃から母に連れられて教会へ行き、子ども心にもイエス・キリストの生き方にあこがれ、また、両親以外の信頼できる大人に出会い、可愛がってもらっていましので、大人になったら洗礼を受けてクリスチャンになる、と決意を固めていました。クリスチャンとして生きることは、人として高潔な最高の生き方だ、と。そのような素朴な信仰や世界観が、高校に入り、無神論の先輩に出会ったことで崩れされました。そんなことがあるまでは、本や絵を描くことが好きなのんびりとした少女でした。その先輩は、サルトルの実存主義哲学に傾倒していて「神はいないし、神を信じるクリスチャンは欺瞞そのものだ」というのです。教会で聞いてきたこととあまりに違うので驚き議論にもならなかったのですが、その先輩の言い分を聞いてみました。彼は「クリスチャンは卑怯だ。人間は皆、自由という刑罰を負っているのに、その重荷を自分一人で負わずに、いもしない神に押し付けて楽をしている。」「人間は神に似せて造られたといって、他の自然や動物よりも自分たちを一段高い所に置くけれど、僕は葉っぱ一枚と同等の価値でいなきゃいやだ。」先輩のいうことが本当なら、私は神なき人間の苦しみがわからないことになる、だって神に重荷を押し付けて楽をしているのだから。だとしたら、「隣人を自分のように愛せ」という戒めも守れないことになってしまう。けれど、クリスチャンであることをやめれば、そのような戒めを守る必要もない。。。結論の出ない堂々めぐりの問いかけが半年ほど続きました。結局、自分は神様の愛なしに生きることができない、と敗北感いっぱいで、洗礼を受けることを決意しました。そして、自分の信じていた世界観を壊されることの辛さ、しんどさを味わい、また、意見の異なる相手と対話を続けてゆくことの困難さを味わいました。でも、今思うのですが、信仰の原点のところに、こういうことが据えられたことは、神の恵みであった、と思うのです。同時代を生きる一人として、クリスチャンであろうとなかろうとその苦しみに同伴する、ということが、据えられたのです。

また、異なる意見を持つ相手に通じる言葉を鍛えることの大切さを心に刻まれたのです。しかし洗礼を受けた頃から、母教会の牧師との齟齬が大きくなってゆきました。たとえばその当時、遠藤周作の「無力なキリスト」というモチーフが話題になっていましたが、教会でその話をするとまっこうから否定されてしまいました。「私は弱いキリストなら信じませんでした。我々を救ってくれる力強いキリストだからこそ信じたのです。あなたもこのようなことに惑わされることなく、まず聖書を読んで祈って下さい。それは悪魔のささやきです」と言われ、何か型にはまったクリスチャン像を押し付けられるような気がして息がつまってきました。まだ高校生でしたし、自分の中の知的な能力も文学的な素養も存分に伸ばしたいと思うのに、それに蓋をされるような気がして、だんだん苦しくなってしまいました。しかし、父親のように優しく育ててもらった牧師先生を悲しませることになる、と自分を責め、そのような葛藤が続き、結局その教会に行くことができなくなってしまいました。でも、自分の中には私の中に、神はこのような知的な関心も、感受性もお与えになったのだから、それを抑圧することを喜ぶはずがない、むしろ伸ばしてゆくことを望まれるはずだという確信がありました。そして牧師先生を裏切るようで辛かったのですが、その自分の確信に従いました。他の人がなんと言おうと、神との対話の中で、自分の確信に従う、という歩みを信仰のはじめの時期に与えられたのは、当時は辛かったですが、今思えば幸いなことでした。イデオロギーの押しつけがいかに人間に辛いものかを味わい、健やかな信仰のアイデンテイテイを形成することの大切さを、この経験からも刻まれたと思っています。

そして、そんな時に出会ったのが、学Yの活動でした。知的なものを抑圧せずに、自分の関心を十分に伸ばしながら、聖書やキリスト教思想を探究できる学生YMCAの活動に出会えたのは、私にとって一種の解放の出来事でした。様々な社会的なテーマには目を開かれる思いがしました。そして全国の仲間や先輩を与えられました。夜を徹して真剣に議論をして、ケンカもしたりしながら、本当に濃い人間関係だったと思います。アジアの学生キリスト者達との出会い、香港の度々の会議で、国際的な関わりの楽しさ、解放感にも目覚めたと思います。この経験がなかったら、韓国への留学、ドイツへの二度の留学もなかったと思います。さて、思い出話をこれくらいにして、今日与えられた聖書の箇所を見てみましょう。

 Ⅱ.創世記1:26-27
■26節「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう。』
「神は言われた」と旧約聖書で書かれているところでは、すべて出来事が起こっています。
ここで使われているへブル語は「アッメール」。語るという言葉です。もう一つ「語る」という意味のへブル語に、動詞「ダべール」名詞で「ダ―バール」という語があります。「ダ―バール」は、「アッメール」とほぼ同じ意味ですが、言葉であり、同時に出来事なのです。「神が言われた」という言葉が旧約聖書で書かれている所は、ほとんどすべて「神は(このことを)生起させる、(この)出来事を起こす」と同じ意味です。しかし、人間はそうはいきません。典型的なのは、人は嘘をつきます。言葉と実体が乖離しているのです。中身のない言葉を語るのです。「神は語った、そして同時にそのことを生起させた。」というのが、「神は言われた」の正確な意味です。ですから、この神の言葉は私達が語ったり、読み書きする現象としての言葉ではありません。出来事としてのことば、です。夕暮れのばら色の雲の饗宴も、風に揺れる一輪の花も、この出来事としての神のことばをわたしたちに語っていないでしょうか。神は真実な言葉を語り、同時に真実の出来事を起こす。それが聖書の神です。その神にならって、私達人間も真実の言葉を語り、真実の出来事を起こすよう努力する。それが信仰者の在り方ではないでしょうか。

『我々にかたどり。。。』のところは、何故、唯一神である神が複数で語るのか、と疑問に思われる方もいるかと思いますが、ここは「熟慮の複数」と言われています。神が深く自分自身と対話をして熟慮をしている時に、「我々」という言葉が用いられると。そしてまさに、ここにこそ、人間と他の動物と決定的な違いがあります。人間は自分自身と深く対話をする存在として、神に似せて造られた、ということもできましょう。ただ本能に従って生きるのではなく、深く考えて生きる、そこにこそ、人間の独特の存在の在り方があります。そして、神はすべての生き物の支配権を人間にここでお与えになっています。ただし、ここは、堕罪前の人間に支配権をお与えになったということを注意しておきたいと思います。堕罪の後は、事情がすっかり変わってしまったのですから、この部分を根拠に「人間が自然を思うままにしていい」という環境破壊の正当化が推し進められてきたことは、本当は矛盾しているのです。過去30年ほど、エコロジー神学の立場から創世記2章15節「主なる神は人を連れてきて、人がそこを耕し、守るようにされた」を根拠に、「地の支配者から地の守り人への転換」が提唱されてきました。しかし、これもまた、堕罪前の人間の有り様として描かれています。現実は私達の世界は、争いと分裂と対立という罪の現実に引き裂かれています。そのなかで「人類こそが最も進化した生物である」と特に近代化イデオロギーの中で人間は驕り高ぶり、環境破壊、地球温暖化、そして何万種という動植物を地球から絶滅させています。まさに、今、このことをこそ、私達は深く考えなければなりません。声なきものたちの声を聞きながら。人間は、自分たちの生きる基盤に唾を吐き続けています。

■27節「神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。
男と女とに創造された。」
 ここに、ふたたび神の似姿が描写されています。この箇所は、同性愛者を排除する異性愛者イデオロギーの根拠として今も用いられますが、フェミニスト神学の学びから、この個所を「互いに異なる者がひとつになる」という風に解釈したいと思います。人は男と女、異なった存在が一つになってはじめて神の似姿が現れるということなのです。もちろん、ここには、古代ユダヤ人の口伝の中で語り伝えられてきた思想が反映されています。何故、人間に男と女が存在するのか。何故、そこから新しい命が生まれるのか。その不思議の原因譚でもあります。人間は、一人では人間ではないのです。男一人でも女一人でも、「神の似姿」は現れないのです。また似たもの同士の寄り合いでもだめなのです。異なった者が、共同し合ってはじめて人間となるのです。ですから、「神の似姿」とは、決して実体としてそこにあるものではなく、その都度生まれ出てくるものではないでしょうか。私達が異なったものを排除するのではなく、勇気をもって異なる者へ自分を開き、共に存在する努力をする、し続ける、そこにこそ、神の似姿が実現するのではないでしょうか。そこにこそ、新しい命が生まれ、次なる共同体へと命が豊かにひろがってゆく道が開けます。神の祝福がそこに響いています。

 深く考えるーこのことが、人間の他の動物とは違った特性だと申しましたが、それがゆえに驕り高ぶった人間は、欲望を肥大化させ、エネルギーの増大を招き、制御不可能なエネルギー・原子力エネルギーをもコントール可能であるかのように錯覚をしてしまいました。3・11の大震災で起こった福島第一原発の事故は、そのことを私達にまざまさと見せつけました。人間の光と闇を、私達はもう一度問いなさねばならない、そこから新しい文明の在り方を考えてゆく時に来ていると思います。私はその時に、出来事としてのことば、に人間が謙虚に聴くことが求められていると思います。朝の光に輝く一枚の落ち葉に、涙する隣人の苦しみに、今、ここでその言葉を聴くことです。思想の言葉は、この出来事としてのことばに根ざした時に、はじめて真実のことばになるのですから。

福島の事故はまさに、出来事としての神のことばではないでしょうか。被造物がうめき、被爆した人々、避難した人々がうめいています。言葉にならないうめき、苦しみがつもったところには、純粋なエネルギーが蓄えられます。そこから新しい世界の預言的なヴィジョンが生まれてきます。旧約の預言書がそうでした。自然の一部としての人間の在り方に、私達はもっと立ち戻ることが求められているのではないでしょうか。大量消費をして便利で快適な生活ができるのが文明人なのではなく、自然と調和しながら、自然の一部としての人間として地の守り人として生きてゆくこと、異なる者を排除し、すべてを一元化した価値観へ還元する在り方に抗して、異なる者へ勇気を持って自分を開き、対話を続け共存の努力を重ねること。人間の間にある「神の似姿」を、常に創造し続けること、創造者なる神の働きに助けられて。それはこれからの新しいビジョンであり、そこにしか人類が生きる道はないのではないでしょうか。学生YMCAの活動が、今までそうであったように、これからも、常に深く考えながら、異なる者とともに共存すること、神の似姿を実現してゆくものでありますように、心から祈り願っています。

祈り
Selig seid ihr, wenn ihr einfach lebt  (幸いあれ、あなた方が単純に生きるとき)
Selig seid ihr, wenn ihr Lasten tragt (幸いあれ、あなた方が重荷を担うとき)
Selig seid ihr, wenn ihr lieben lernt (幸いあれ、あなた方が愛することを学ぶとき)
Selig seid ihr, wenn ihr Guete wagt(幸いあれ、あなた方が善き業をあえてやってみるとき)
Selig seid ihr, wenn ihr Leiden merkt (幸いあれ、あなた方が苦しみに気づくとき)
Selig seid ihr, wenn ihr ehrlich bleibt (幸いあれ、あなた方が誠実にそこにとどまるとき)
Selig seid ihr, wenn ihr Frieden macht(幸いあれ、あなた方が平和を作りだすとき)
Selig seid ihr, wenn ihr Unrecht sruert (幸いあれ、あなた方が不正義を感じるとき)
                作詩:カール・バルト&ペーター・ホルスト 1979
『ドイツプロテスタント教会讃美歌』(1995)より

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