December 03, 2013

「共に希望を探す交わりを」


「共に希望を探す交わりを」

 これまでも十日町教会の新井純牧師と共に被災地巡回訪問を重ねてきましたが、今回は11月18~20日、福島県を中心にお訪ねしました。(会津放射能情報センター、川谷教会・川谷保育園、白河教会、原町教会・原町聖愛保育園、東北教区被災者支援センターエマオ、仙台北教会・東北ヘルプ、日本聖公会若松諸聖徒教会)。
 
 中でも印象に残ったのは、二つの保育園で伺ったお話です。
 
 川谷保育園で印象的だったのは、各家庭の経済状況が選択肢に大きな影を落としているという指摘です。一人の稼ぎで子育てができる収入があれば、働く父親だけが福島にとどまり母子は避難する、保養に出かける、という選択肢があるが、共働きでないと子育てができない場合、そのような選択肢はなく、たとえば工場労働などは、福島から離れて移住しようとしても次の雇用のあてがない状況のなかで、福島に釘付けされるようにして懸命に子育てをしている状況がある、とのこと。福島全体を重たい空気が覆いかぶさり、相当のストレスを抱えながらみんな生活していること。今後そのストレスが犯罪率の増加などにつながるのでは、との懸念があるとのことでした。また、「原発事故後の初期被曝の問題を見過ごすわけにはいかない」とも強調されていました。「現在の空間線量はそれほど高くないが、初期被曝でおよそ5年分の放射線を1ヶ月で受けたと考えると、これ以上少しでも上乗せするような被曝を子どもたちにさせたくない」とのことから、400m先にある体育館に移動する時ですらマイクロバスで移動しているそうです。

 原町教会でも、子どもを育てるという点で言えば、原町は比較的空間線量が低いが、すぐ隣には線量のものすごく高いところがあり安心できないこと。放射性物質の驚異に加えて、「これをしたら補償金が減るのではないか」「これをしたら補償額が増えるのではないか」ということでしか物事を考えなくなっていく大人たちの姿や、希望を失い退廃的になっていく大人たちの姿を見ながら子どもが育つことへの心配。原発や汚染の問題が人間関係を複雑で困難なものにしており、そのストレスが家庭で女性や子どもへの暴力という形で現れていること。麻薬が被災地に出回っているという噂があったが、実際に最近原町で麻薬所持の逮捕者が出たことなど・・・本当に口先だけの信仰ではなく、今まで大切だと言ってきたことをこの厳しい現実の中で実際に生きていくことができるのかが問われている、との言葉に身を糺される思いでした。

 未来への希望が見えない状況、閉じ込められているかのような閉塞感、ストレスによる暴力やアルコール・薬物依存の問題・・・福島で感じた現実は、実は私が学生時代に出入りしていた「釜ヶ崎」の状況と似ているのではないか、と思いはじめています。放射能汚染の現実と向き合い生きていこうとする時、チェルノブイリはもとより、釜ヶ崎をはじめとして、人の命と向かい合い、命を助け、命を守ろうとしてきた働きと、積み重ねられてきた経験に聞き、学んでいくことがもっと必要になるのではないでしょうか。わたしたちはひとりではありません。そこに希望があります。

 放射能汚染の問題の多くは政治の問題であり、粘り強く政治に働きかけることが大切です。それと同時に、共に課題に向かい合い、共に希望を探す交わりを、どう形作っていけるのか、それが私たちに問われているもう一つの課題なのだと思わされています。

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May 28, 2011

関東教区被災支援ニュースより

「あの日、あの時から」 長倉 望(新潟教会牧師、東北大学YMCAシニア)

「ハチドリのひとしずく」というアンデスの先住民に伝わる話があります。森の火事にわれ先にと逃げていく動物たちの中で、一羽のハチドリだけが、いったりきたり、くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としている、というお話です。「そんなことをしていったい何になるんだ」といって笑う動物たちに、ハチドリはこう答えます。「私は、私にできることをしているだけ」。お話はこのセリフで終わります。私はこの話を以前から知っていましたが、実はあまり好きではありませんでした。あまりにも理想的すぎると感じていたのです。けれども、東日本大震災にあたり、何度も小さな自家用車で仙台に物資を運ぶ車中この話を思い起こしました。このお話だけではありません。屋根をはがして病人をつりおろした4人の話や、5つのパンと2匹の魚の話、たくさんの聖書の物語がその車中何度も何度も思い起こされ、励まされていたのです。

新潟地区には、2004年の中越地震の経験から、地区組織の中に“被災支援担当”という部門が現在も常設されています。県内あるいは隣県の自然災害に対して、被災状況の調査ならびに初動期の支援を行うのがその目的です。今回の東日本大震災においても、震災から2日後の3月13日に三条教会で行われた新潟地区総会を終えて、新井純牧師と西川幸作牧師が被災支援担当として仙台に入りました。14日のことでした。「関東教区内にも被災状況があるのは承知しているが、地理的な要因から、新潟地区は東北の支援に入る」との判断でした。

私の携帯電話に新井牧師から「ボランティアセンター立ち上げに必要な物資を購入して新潟から運んでほしい」との要請があったのは、その日の夜のことです。仙台は当時、物流の停止、ガソリンの不足、ライフラインのうち特に都市ガスが停止し、都市機能が麻痺している状況でした。福島の原発事故のニュースも大きな不安材料として暗くのしかかっていました。

私が到着したその日の夜、正式に東北教区支援センターが立ち上がり、物流が回復するまでの間、新潟教会に物資を集積し、そこからエマオに輸送することが話し合われました。実際には3月21日に物流が回復するまでの1週間、ガソリン携行缶、カセットコンロとガスボンベ、カイロが新潟教会に全国の諸教会・諸団体・個人から送られてきました。短い期間にもかかわらず、新潟教会のホールを半分以上埋め尽くした物資には、全国の方々の真摯な祈りがありました。集められた物資は新潟地区の牧師たちが何度も何度も仙台まで自家用車で運びました。山形に入ったらガソリンの給油ができなかったため、仙台~新潟は1度の給油で往復できるぎりぎりの距離だったのが幸いしました。

「私たちは微力かもしれないが、無力ではない」というのが支援センターエマオの合言葉です。確かに私たちは、非常事態であるからといって、特別なことができるわけではありません。けれども今、私たちに求められていること、つまり互いの安否を問うこと、共に祈ること、自分のパンを困難の中にある人と分かち合うこと、命を喜ぶこと、召された方とご遺族の慰めを祈ること、互いに励ましあうこと、隣人のために働くことは、私たちが今まで教会で大切にしてきたことそのものです。私たちはそのことを、より丁寧に、より確かに、より真摯に、より誠実に、より多くの人たちと共に積み重ねていくことが、これからも求められているのだと思っています。

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April 21, 2011

新キ平の聖書研究の原稿

聖書:ルカによる福音書24章13-35節      
長倉 望(新潟教会牧師、東北大学YMCAシニア)

「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(ルカ24:28)
今から9年前の2002年の3月末、わたしたちの間に生まれた最初の子どもに“ゆうき”という名を付けました。この子が生まれるちょうど半年ほど前、2001年9月11日に、かの“9.11同時多発テロ”が起こったのです。テレビに繰り返し映し出されるビル崩壊の映像に驚愕しながら、またそこから始まっていったアフガニスタンへの攻撃がイラクへと飛び火していく中で、「これから生まれてようとしている新しい命が生きていかなければならない世界は一体どうなってしまうのだろう。この暴力の連鎖はどこまで続くのだろう。生きるのにほんとうに“ゆうき”の要る時代になってしまった・・・」との思いから、話し合って子どもの名前を“ゆうき”としたのです。しかも「新しい時代に必要な“ゆうき”とは、“勇ましい気持ち”ではない。むしろ、困難の中にある人を放ってはおけないとの“友のための祈り”に押し出される一歩が必要だ。そしてそのような一歩は、大勢の“友の祈り”に支えられ励まされてはじめて踏み出せる一歩なのではないか・・・」そんな思いを込めて「友祈」という字にしました。そんな友祈が生まれたのは、ちょうど受難週の水曜日でした。イエス・キリストがゲッセマネで祈り、十字架の道へと踏み出された姿を思い起こしました。

今回の震災で何度も仙台と新潟を往復する車中、その時の気持ちを思い出していました。特にまだ被害の全容がわからない中、福島第一原発の事故が伝えられる中で、先遣隊が引いてくれた一筋の糸を頼りに仙台に向かった時、9年前に自分たちが新しい命の名に込めた祈りに、今度は自分自身が促され、励まされているように感じたのです。実際、初めて仙台に出発する時は、新潟教会の早天祈祷会のメンバーと事務室のメンバーが祈りをもって送り出してくれました。また、その後次々と物資を新潟教会に送って下さった全国の方々の切なる祈りを感じました。その祈りにどれほど励まされたことでしょう。祈りが導く道・祈りが切り開く道があるのだ、ということを改めて知らされました。

片岡謁也牧師(東北教区宣教宣教部委員長)が、敬和学園高校入学礼拝の保護者代表挨拶で、東北教区被災者支援センター・エマオに新潟地区の牧師たちがなんども物資輸送をしたことに触れて「あの“エマオへの道”に神さまが共にいてくださったと信じています」と語られたことを後日聞きました。確かにそうだったのかもしれない、と振り返って思います。そして、そうであるならば《イエスは、なおも先に行こうとされ》ているに違いない、とも思います。だから、これからも、主イエスの祈りに導かれ、多くの人たちと祈りを紡ぎ合いながら、共なる歩みを重ねたい、と願っているのです。

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March 18, 2011

新キ平の聖書研究の原稿

聖書:マルコによる福音書6章30-44節
 長倉 望(新潟教会牧師、東北大学YMCAシニア)

(3月17日 記す)
さきほど、仙台から帰ってきました。
仙台市内は次第に店もあきはじめ、今日はガソリンスタンドも稼働しているところがいくつかみうけられます。どちらも長蛇の列ですが、一緒にいたネパールで医者をしているJOCS(キリスト教海外医療協力会)の方が、「ネパールの日常生活くらいにはなりましたね」とおっしゃっていました。ネパールもガソリンを買うのはいつも長蛇の列なんだそうです。

若林区の荒浜に行きましたが、交通規制のため車で海岸の方にはいくことができませんでした。しかし、本当に内陸の方まで洪水が来たことがよくわかりました。ゴミや靴などが田んぼの中に流されてありました。 (「東北教区被災者支援センター」のブログに、車を降りて徒歩で海岸線まで行ったスタッフが撮影した動画があります)。

避難所となっている小学校の体育館もお訪ねしました。物資はたくさんあり、「この避難所は、阪神の震災に比べれば、ずいぶんまし。ここに不足しているのは医療くらいかな。むしろ、この寒い中を長時間並んで買い物をしなければならない、避難所に入らなかった人たちの方が今はたいへんかも」という話でしたが、避難所には「プライベート」も当然不足しており(というかまったくない)、長期化するほど大変だと思います。

避難所の物資は、自宅のある人にはわけられないらしく、悪い意味で縦割り行政日本らしいことになってしまっています(後で聞いた話では、ある一定の手続きを経れば可能とのこと)。また避難所格差もあり、仙台市内の避難所は食料も衣料も十分あるようですが、郊外の避難所は物資が不足しているようです。訪問したスタッフから、一日目はおにぎり1こ、二日目はパン1個とバナナ一本、という状況を聞きました。郊外に物資をお届けしたいのですが、自分たちが移動するガソリンがなく、非常にはがゆい、悔しい思いをしています。(昨日多少のガソリンが手に入りました)

仙台市内は電気と水道は復旧したところが多いと思いますが、都市ガスは復旧の見込みがたたず、1か月後とも3か月後とも言われています。カセットコンロやガスボンベが必需品です。カセットコンロがあれば、訪問先でちょっとした炊き出しができますし、ガスボンベが欲しいと支援センターを訪ねていらっしゃる人もいます。現在支援センターでは、あと6個くらいしかなく(ほかはみんな差し上げた為)、お分けすることができなくなっています。宅急便では運搬できないことになっており、新潟市内でも商品がないとのことでしたので、教会に電話して「ご自宅に3本あったらそのうちの1本を礼拝に持ってきてください」との連絡を回してもらいました。

帰りの車のなかでぼんやり考えていたのは、「分けると増えるってほんとだなぁ」ということでした。あちらでは本当にカセットコンロのガスボンベが貴重です。10倍以上の価値があるといっても過言ではありません。その価値とは「値段」ではなく、ガスボンベ1本あることが「希望」であり「喜び」なのです。被災していない家にある三本のボンベはそのままではたんなる三本ですが、そのうち一本でもわけると、「希望」や「喜び」が、困難の中にある人たちの中に、そして私たちの中に、確かに生まれるのです。

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