July 03, 2007

シニアミリアムのお知らせ

学Y関係者の皆様

この度、下記のとおり、学Yシニアの「ミリアム」(ジェンダー・セクシュアリティー・パートナーシップを考える女性プログラム)を企画いたしました。
学Yを経て、そこでの学びや経験を土台にしながら社会生活を送っているシニアが集まり、お互いの近況報告や、現在の学Y、特に女性プログラム「ミリアム」の状況等情報交換しつつ、それぞれのやり方で、緩やかにつながっていく機会を作りたいと思います。

もちろん、学Y以外の方でも、お友達やパートナーなど、お誘いあわせの上お越しください。子連れももちろん歓迎です。

日 時:7月21日(土)午後~7月22日(日)午前
* 宿泊場所は、日曜日に教会学校で使用されるので、早めに片付け等、ご協力お願いします。

* 22日(日)は、四街道教会の礼拝に出席後、午後は浦安教会で行われる映画「あんにょん・サヨナラ」(http://www.annyongsayonara.net/)の上映会に参加できます(希望者)。

* 食事は、小さな子ども達もいるので、会場で自炊にしたいと思います。土曜日の午後早めに来て、買出し&夕食の準備ができる方募集中♪

* 申し込みは7月17日までに、夕食・宿泊の希望の有無をあわせて福田までご連絡ください。

場 所:日本基督教団 四街道教会(学Yシニアの神崎さん、長倉さんのいらっしゃる教会です)

お申し込み&お問い合わせ:福田

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August 07, 2006

シニアミリアム 報告

■シニアミリアム 報告■ (福田奈里子 WSCF地域女性委員)

2006年 7/22(土)-7/24(月) 学Yシニアの有志の企画で、「シニアミリアム」なるプログラムを実施しました。学YMLの不具合で、ML上の皆さんには当日のお知らせになりましたが、そのメールを見て(!)参加してくださった方もあり、学Y女性プログラムである「ミリアム」に熱ーい思いを込めた女性・男性参加者の皆さんで、大変有意義な時間を持つことができました。以下ご報告いたします。

参加者:さっちー、のんちゃん、草じい、MAKIさん、としぼん、Aさん、nonちゃん、まんぷく丸、まむしくん、あきちゃん

ちびっこ参加者:ゆうちゃん、ちびズちゃん、そー、あき

こゆりさんも参加予定でしたが、当日バス乗り場まで行って具合が悪くなり、ダウンされたそうです・・・お大事になさって下さい♪

プログラム主旨:学Y出身のシニアが、それぞれの場で、学Yで得たものをどのように社会生活に活かしているか、またそうすることで直面しているチャレンジは何か、などをシェアし、また、日頃の「うっぷん」や「不安」や「迷い」も含めて、自由に語り合いながら、これから生きていくエネルギーを分ち合う。

プログラム内容:
土曜日:午前中に集合、交わりのとき
 日曜日:四街道教会礼拝に出席
     午後、学生部委員会メンバーはそちらに出席  夕方、教会の夕拝
     夜、学生部委員会後に委員やスタッフが合流
 月曜日:交わりのとき

私は、日曜日夜からの参加だったのですが、着いたときには4歳のちびっこ達が、興奮気味に歌い・踊り、赤ちゃん達は、まむしさん(水谷さん)と長倉さんのひざの上で、ミルクを飲んでいて、「学Yシニアがプログラムをやると、こんなことになるのかー。」という光景でした。新しい集会のあり方としても、とても参考になりました。
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残念ながら翌日勤務のある田原さんはもう帰られていましたが、その他の参加者で、自己紹介&近況報告から会をはじめました。といっても、この長ーい自己紹介だけでこの日のプログラムは終わってしまったのですが・・・。

出てきたトピックは・・・
・女性と男性(あるいは同性カップルの)パートナーシップについて
・シングルで生きる時に直面するチャレンジ(30代働くシングル女子の3大鬼門あるいは地雷…1.仕事の行き詰まり 2.婚姻外レンアイのお誘い 3.婦人科系の疾病)
・学Yの今の様子とシニアにできるサポートは何か?
・「働く」ということ
・社会人としていま直面している困難&その乗り越え方
・子育てと社会参加について
・育児支援のあり方
・リプロダクティブ ヘルス&ライツ
・老後の生活について(グループホーム「ミリアム」設立???なんちゃって。)

といったところでしょうか。それぞれに内容が濃いので自己紹介しながら、「そうそう!」などと始まって、充分深いディスカッション&シェアリングができました。

翌日月曜日は、朝食後、しばらく昨日の続きを話したり、これからの学Yのことなどについて自由に話をしました。最後に全員で写真を撮って解散。

シニアミリアムのこれから:
学Yで様々な体験をして、それらを活かしながら社会で活躍する仲間たちに会えたことは大きな喜びでした。また、そのような学Yでの学びを充分に生かしきれていない・・・などと自信を失ったり、凹んだりするのも、みんないっしょなんだ・・・ということを知り、「悩んだり迷ったりするのは、私、一人じゃない。この仲間 が(ここに集っていない人たちも含めて)いるから、私も自分の場所で、頑張ろう!」という勇気をそれぞれが与えられたと思います。

同時に、このような深い出会いと交わりと学びを与えられた場である学Yに、どのような形で「つながって」いけるか、が私たちシニアの課題であるように思いました。シニア自身もそれぞれのライフ・ステージで様々な課題や困難にぶつかっていることも今回良くわかっ たので、このような緩やかかつ、元気付けのできる、シニアの会を学Y賛助会セミナーと平行しながらやっていけたら・・・と思います。
また、現役学生の皆さんへのサポート体制を少しずつでも作っていこうということになり、今回、「学Yシニア・リソース・リスト」を作ろうという案が挙がりました。これは、学Yシニアで、直接または間接的に学Yのプログラムなどで、必要に応じて(テーマ別に)リソースパーソン(とまでいかなくても、相談役として)になれそうな人たちを一覧にして、学Yプログラムに役立ててもらおう、という主旨のものです。今回は「ミリアム」という形で集まりましたが、ジェンダー・セクシュアリティー以外のテーマでももちろん加わっていただきたく思います。(そこに、やはり「女性」のエンパワメントに力をいれつつ・・・という感じです。)現役の学生さんたちが、学Y卒業後の就職や生き方について考える時に、こういう選択肢もあるよ」ということを伝えたり、「こんなチャレンジにあったときはこんな風に乗り越えてきたよ・・・」というケーススタディ(?)付で、現役学生の皆さんとシェアできたらいいな、と思います。
  
最後に、この企画は、学Yシニアの最近の様子を知りたい&現在の学Yに力を貸していただきたい・・・などという個人的な発想から、有志で(学Y本プログラムではない形で)企画を致しました。そのため、シニアの方全員にこの連絡が行き届かなかったとことをお詫びいたします。今回は、パイロットプログラムのようなもので、今回の会を参考にしながら、シニアの会の持ち方について学生部委員会で検討しつつ、本プログラムとして、何らかの形で会をもてたら・・・と思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

長くなりましたが、報告は以上です。
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August 05, 2006

シニアミリアム、開会礼拝?メッセージ(長倉 望牧師)

「旅立ち」   使徒言行録13章1-3節   長倉 望

▼今日の礼拝は、わたしにとっては、とても不思議な感じのする礼拝になるだろうと思って臨みました。大学時代を共に過ごした学生YMCAのメンバーと、そして、今、共に歩んでいる四街道教会の人たちとが同じ時空間にいるからです。ぼくにとっては、普通ではありえない光景です。そして、学生 YMCAのメンバーにとっても、ぼくがこうして説教をしていたり、あるいは、気がついてみると3人のこどもたちに囲まれて生活をしている、という姿は、ありえない光景かもしれません。普段生活していますと、自分はあまり変化がないなあと思ったり、いつまでも自分は27歳くらいのつもりでいますが、こうしてみますと、それぞれの顔に、ああ、あんなこともあった。こんなこともあった・・・と、嬉しいことや、しんどいこと、様々なことを思い起こします。特に、わたしにとって、大学時代、19歳から27歳くらいまでの間は、多くの出会いによって、本当に自分の生き方が変えられていった時だけに、なんともいえない不思議な思いがします。

 けれども、それが単なる同窓会、今を忘れ昔を懐かしむ同窓会と違うのは、そういうひとつひとつのシーンを積み重ねながら、今、こうしてここにいる、ということを自分の内に確かめながら、またお互いの今を、互いに確かめあう中で、これからに向けて、新しい歩みへと励まされ押し出されていくような、そんな思いがするからです。ああそうだ、あのときあんなことがあったじゃないか、そうして一歩ずつ歩んできたじゃないか。そうした中で四街道教会の人たちと出会い、今も、新しい一歩を歩んでいくんじゃないか・・・この不思議な光景を前に、そんな思いがしています。人と人とが出会い、出会いの中で問われ、自らが変えられながら積み重ねてきたひとつひとつの歩み、というのは、わたしたちを未来に押し出していく不思議な力があるような気がします。

▼さて、今日お読みいただきましたのは、使徒言行録の13章、サウロが宣教旅行に出かける、というところです。アンティオキアの教会からの新しい旅立ちを描いた短い箇所です。蛇足ですが、使徒言行録においてはこの13章で、サウロはパウロという名前に変わっていきます。

 アンティオキアの教会は、様々な人がいた教会でした。そのことについては、7月9日の説教でも触れましたが、今日の聖書に出てくる5人の人の指導者の名前を見ても、アンティオキアの教会がバラエティに富んだ人たちの集りであったことがよくわかります。たとえば、バルナバはキプロス島出身のユダヤ人であり、シメオンはニゲルと呼ばれていたとありますが、ニゲルというのは黒という意味でラテン系の名前です。黒人だったのでしょう。ルキオというのは今で言うリビア人。そして、マナエンは、その当時の教会への迫害者ヘロデ王の親戚だ、というのです。教会の敵対者の身内すらも、アンティオキア教会の一員でした。そして、最後はのちにパウロと名前を変えるサウロです。このように、様々な人種、様々な政治的・文化的な背景を持つ人々、そして言語の違い・・・そのような人々が集ったのが、アンティオキアの教会でした。あるひとはアンティオキアの教会を、パッチワークのような教会だ、と評しました。そして、そのアンティオキアの教会こそが、パウロにとって、特別な教会となっていったのではないか、ということもまた、思わされるのです。巻末の地図を御覧になるとわかるように、サウロの3度にわたる宣教旅行は、すべてこのアンティオキアの教会から始まっているからです。

▼そもそもアンティオキアの教会は迫害を受け散らされて行ったヘレニストキリスト者たちが立ち上げた教会でした。そして、異邦人たちがメンバーとして加わっていった教会でもあります。11章19節以下の物語を見ると、そこにエルサレム教会から派遣されてやってきたバルナバが、この教会にサウロをタルソスから呼び戻したとあり、そうしてパウロはこの教会の一員となるのです。

 このことは聖書には淡々と描かれているだけですが、想像するに、サウロがアンティオキアの教会のメンバーとなる、ということはとても大きなチャレンジだったと思われます。なぜなら、そもそもサウロがタルソスにいたのは、ヘレニストキリスト者から命を狙われる存在だったからであり、なぜ命を狙われるのかといえば、もともとサウロはキリスト者を積極的に迫害するものだったからです。そして、その迫害の標的にされていたのが、ヘレニストキリスト者たちであり、こともあろうかアンティオキアはヘレニストクリスチャンの教会だったのです。たとえサウロがキリストと出会い、キリスト者となったと言っても、あるいは、迫害の被害をあまり受けなかったユダヤ人キリスト者たちがいくらサウロを仲間だと認めたとしても、ヘレニストキリスト者たちにの中には、許し難い記憶が、家族や友人たちの迫害の痛みや傷があったのではないでしょうか。だからこそサウロはユダヤ人キリスト者たちの勧めに従ってタルソスへ退いたのではなかったのでしょうか。そのタルソスからサウロはバルナバによってヘレニストキリスト者の教会に呼び戻されているのです。これほど大きなチャレンジはありません。様々な軋轢が起こり、緊張が高まり葛藤があったことでしょう。けれどもアンティオキア教会はサウロを受け入れていくのです。ここで一体何が起こったのか、その時起こった葛藤や混乱や緊張が、どのようにして克服されていったのか、使徒言行録は何も語っていません。9日の説教でも、アンティオキアの教会について、このようなイメージを分かち合いましたが、本当にそのことは凄いことだと思います。

 今わたしたちの暮らす地域においては、北朝鮮のミサイル実験や、昭和天皇の靖国に対する発言のメモが見つかり話題を呼んでいます。その受け止め方は様々ですが、いずれにせよ、思わされるのは、わたしたちの暮らす地域が、第二次世界大戦における日本の加害と被害の歴史の中にあること、また今なおその爪痕が深く深く残る地域にわたしたちは生きているということ、そして60年たったいまもなお和解の出来事を作り出すことのできていない歴史の中に自らがいるのだということを考えるとき、アンティオキアで一体何がおこったのか、いわば加害者と被害者がどのように和解し一つの共同体を形成して行ったのか、というのは本当に大きな関心事となるのではないでしょうか。この数週間、ずっとそのことを考えています。本当に奇跡というのはまさにこのことのような気がします。

 けれども、奇しくも、前回の説教では、聖書の奇跡物語で重要なことは、超常現象が起こり問題が解決するということなのではなく、そこに“出会い”“生きる”“いのち”の物語がある、わたしたちが、与えられたいのちを生き人と出会いつながっていくことができる、出会いやつながりによって生きていくことができる、そのこと自体がまさに奇跡であり、イエスキリストが見出したのは、わたしたちの命の営みの中に働かれる神の力なのだということを考えました。5つのパンで5000人がおなかいっぱいになったり、病気が治ったり、死んだ人が生き返ったりするという現象的な結論が大切なのではなく、そこで大切なのは、苦しみの中にある命がイエスキリストと出会った、そしてその命の出会いの中でパンが分かち合われた、という出来事であり、病のためにそっと後ろからイエスの衣に触れた女性がいた、イエスはその女性を大勢の群衆の中から弟子が無理だというのも聞かずに探し出して、そこに命の出会いと分かち合いが起こった、という命の物語であり、気がつけば、聖書に記されている奇跡というのは、その全てがこのようなわたしたちの“いのちの出会いと分かち合い”に関することなのではないか・・・もっというなれば、わたしたちが奇跡として受け止めなければならないのは、なにも“超常現象が起こること”ではなくて、わたしたちにいのちが与えられているというそのこと、わたしたちのいのちそのもの、そしてその命が出会い生きていくというその一見あたりまえのような“出会い” “生きる”“いのち”ということ、それこそが、聖書の語る、神の創造の奇跡であり、イエスキリストとの出会いであり、聖霊の働きといった「奇跡」の出来事として、聖書はわたしたちに語りかけているのではないでしょうか。

 つまり、わたしたちがいのちを与えられ生きているというそのこと自体が既に奇跡的なことであり、神の業はそのようなわたしたちの命を通して現れるということです。その点で、やはりアンティオキアの教会には、たとえそれがどれほど奇跡的なことだと思われたとしても、そこには書かれていない大変な苦労と地道な努力、いのちの営みがあったのだと思うのです。お互いの過去の歴史や限界や弱さを背負いながらも、そこで出会い、問われ、自らに向き合い、変えられていく、そのような歩みが、そこで積み重ねられてきたのではないでしょうか。そして、そのような歩みが、アンティオキアの教会を、そしてサウロを和解の出来事へと導き、さらに新しい歩みへと押し出して行ったのではないでしょうか。その点において、やはりパウロとアンティオキアの教会の出会いの出来事は、パウロの回心に続いて起こり続けている“奇跡”=出会い・生きる・命の分かち合いの出来事だと言えるのではないでしょうか。

▼残念ながら、聖書はわたしたちに安易な解答を示してはくれません。すぐに答えをほしがるわたしたちに、聖書は問いを投げかけ、また、わたしたちが進むべき方向を指し示すだけです。その問いかけにどのように答え、また指し示された道を具体的にどのように歩むのかは、わたしたちの現実の課題であり、歴史を作り出していく課題であり、命の課題です。けれども、人と人とが出会い、出会いの中で問われ、自らが変えられながら積み重ねてきたひとつひとつの歩み、というのは、わたしたちを未来に押し出していく不思議な力があります。わたしたちがその問いかけに答えようと互いに向き合い、現実を見つめ、自らを振り返るとき、そして、共に生きる人々と、そのような歩みを重ねていくとき、その歩みはわたしたちを未来へと押し出してくれることを信じるのです。歴史を導く神の業は、わたしたちのいのちを通して成し遂げられると、聖書は告げているからです。

 サウロは、自分を受け入れてくれた信仰共同体から押し出され、新しい旅、未知なる旅へと旅立ちます。信仰と現実とわたしたちの命の交わるところに与えられる使命が、サウロを新しい旅へと押し出します。サウロのために祈る仲間の、その祈りが、困難な歩みにあってもサウロを支え続けます。わたしたちもまた、ひとつひとつの命に誠実に向かい合い、出会いの中で問われながら、ひとつひとつの歩みを積み重ね、未来に向けて押し出されて生きる交わりを作り出していきたい、それぞれの歩みをする友のために祈り、友の祈りに支えられて一歩を踏み出していくものでありたいと願い祈ります。

 しばらく黙祷しましょう。

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August 04, 2006

シニアミリアム、閉会礼拝?メッセージ(神崎典子牧師)

「行って、出会いなさい」ルカによる福音書10章25~37節 

 昨日まで、北総分区の教会学校キャンプが行われていましたが、参加されたみなさん、子どもたちもきっとよき出会いや交わり、貴重な経験ができたことと思います。お疲れ様でした。熱が出た子どももいたと聞きましたが、無事に帰って来られたこと、本当に感謝です。また、行けなかったわたしたちにもいろいろとお話を聞かせていただけたらと思います。

 さて、わたしの個人的な出来事ですが、先日、疲れからか、久しぶりにお腹にくる風邪をひきまして、寝込んでしまいました。胃が痛み、手がしびれて爪の色も顔色も青くなり、寒気がひどく、子育てはできないなと思いました。ちょうど水曜日の聖書研究祈祷会の直前でしたので、長倉牧師とみなさんは双子の赤ちゃんをあやしながら聖書を読むことになりました。その間にわたしは病院で点滴を打ってもらって少し楽になりましたが、熱は高くなり、いろいろと不安になってしまいました。その週の土曜から泊りがけで四街道教会をお借りし、学生YMCAのミリアムという集会が開かれる予定でしたのであせってしまいました。子どもたちは昼間は保育園の一時保育などで預かってもらいましたが、夜の子育てで体力は限界でした。熱が下がってお腹の痛みが和らいでくると、今度は、夜も眠れなくなってしまいました。久しぶりに会う友人たちを四街道教会に迎えてミリアムという集会に出ると思うと緊張したのでしょうか、二日間も眠れずに朝しらじらと夜が明けるころにうとうとするだけとなってしまいました。そうなると、体も心もつらくて、不安でした。

 「わたしはどうしてこうなんだろう。情けないな」と思ってあせって苦しんでいる真夜中、ふと、今はもう会えなくなっている不眠症の大切な友人のことを思い出しました。以前はその人の話を、ただ聴いていただけだったけど、何日も眠れないって、どんなにつらかっただろうと思ったのです。その人の痛みは十分には分からないけれど、何かあると時々眠れなくなるわたしは、この痛み、この弱さを、自分自身が打ち砕かれて隣人とつながっていくために神様からいただいたものかもしれないと感じました。もしかしたら、この弱さの中でこそ、誰かとつながっていけるのかもしれない、と感じました。すると、わたしの人生まるごと神様に抱えられているような安心感につつまれました。何が起ころうが、わたしたちみんな神様の御手の中にあると思ったのです。

 そして、その後も、教会の方々、ミリアムの集会に集った方々に助けられ支えられながら、感謝の時を過ごさせてもらいました。そして、弱いからこそ助けてもらって、こうしてみなさまに支えられる、つながりあえる豊かさを思いました。そもそも、学生YMCAのミリアムという女性グループのシニアの会を四街道教会をお借りしてできないかという提案があったのも、わたしが子連れではなかなか出かけられないから、みんなで子どもをみながら語りあおうとある女性が言ってくださったからでした。

 今回、ここで開かせていただいたミリアムでは、それぞれ違う女性たちの生き様に励まされました。個人的にはつらい出来事を経験しながらも、それを乗り越え政治の分野で平和と福祉のために働こうとしている女性、池袋で野宿を余儀なくされているホームレスの方たちと共に支援活動を続ける女性、男性の多い会社で、差別を感じながらも彼女らしくリーダーシップを発揮する女性、これから小さな命に寄り添い命を育もうとしている妊婦さん、つい先日、バングラディシュで行われたアジアの女性たちの会議に出席した子育て中の女性、その他にもそれぞれの人生の痛みや思いを分かち合ってくれた女性たち、わたしが駆けつけたくても駆けつけることのできないそれぞれの現場に、彼女たちがいる、その存在自体にとても励まされました。

 そして、今回身体の調子を少し崩してしまったわたしは、こうして四街道教会という共同体の中で、そのつながりと交わりの中に生かされていることをうれしく思った時、今日読んでくださいました「善きサマリア人のたとえ」を思い起こしたのです。まったく違う状況だけれども、このにっちもさっちもいかない現場で、追いはぎに襲われてボロボロになったこの人と自分自身の姿が重なり、この人がサマリア人に助けてもらったように、今のわたしは、いろんな人に助けられているなあと思うのです。追いはぎに襲われ、傷ついて、捨て置かれたこの人、祭司にもレビ人にも見捨てられたこの人が、サマリア人にあたたかく触れられ、介抱されて、どんなにうれしかったでしょうか。

 けれども、ある時には、わたしは、傷ついてボロボロになったこの人に出会わないように道の向こう側を通って行った祭司やレビ人と同じでした。池袋でホームレスの方たちと共にご飯の炊き出しをしている友人たちの活動に参加しようと、まだ小さかった上の娘と二人で四街道から池袋まで行ったときのことです。炊き出しの会場である公園へ行こうとしていたとき、池袋駅の地下で、ぐったりとして身体の具合の悪そうなホームレスの方が座り込んでいたのが目に入りました。でも、わたしは、小さい娘を連れていて、なんとなく、汚れた姿でいるその方に声をかけることができませんでした。それなのに、もうすぐ炊き出しの時間となるボランティアの方たちのところへ行くために道を急いだのです。そのときの偽善的な自分の姿を忘れることはできません。

 また、世界中が、戦争や国家間の対立に巻き込まれている今の社会において、飢えている人々、傷ついている人々のことを知ろうとしない、出会おうとしないわたしは、結果的に、道の向こう側を通ってその人を傷つけていることになってしまっているのではないでしょうか。

 イエスの視点、生きる視座はいつも、最も弱くさせられている人、最も傷つき、苦しんでいる人のところにありました。今日の箇所でも、ある律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問し、逆にイエスから「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われると、彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。そして、イエスから、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われると、彼は自分が実践していることを示そうとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と聞きました。この問いを受けて、イエスはこのたとえ話をしたのです。そして、イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家とわたしたちに問いかけています。律法の専門家が、「わたしの隣人とはだれか」と、助ける側、よい行いをする側から発言しているのに対して、イエスは、追いはぎに襲われ、傷つき、痛んでいる人を中心に、その人の立場から、「誰が、この人の隣人となったのか」と問いかけるのです。

 イエスの生き様はいつも、弱く小さくさせられた人、さまざまな病気の人と共にありました。そして、自ら、最も神に見放された罪人として、死刑囚と共に十字架に架けられていくのでした。イエスは、その生も死も、神から、人から、最も見放されたと思われるような人たちと共にあり、今もなお、共におられるのです。
 このイエスの問いかけを受け、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた律法の専門家は、その後、どうしただろうと考えさせられます。そして、彼のその後の物語は、共にイエスの問いかけを聞いたわたしたち自身が作り出していく物語でもあると思うのです。

 さて、このたとえ話で面白いと思うのは、その登場人物の意外性です。この追いはぎに襲われた人を助けたサマリア人というのは、当時のユダヤ社会において、非常に差別的な扱いを受けていたグループでした。このサマリア人とユダヤ人とは、元々は同じイスラエルの民でしたが、イスラエルが北と南に分裂し、北は、アッシリア帝国に滅ぼされ、支配される中で、このサマリアの地方は、アッシリアの政策の中で外国人が入ってきて、いろいろな民族同士が結婚していきました。サマリア人は、ユダヤ人としての純粋性が失われ、宗教的に穢れているという理由で、ユダヤ人から、忌み、嫌われて口もきかない状況だったのです。けれども、このサマリア人こそが、追いはぎに襲われたユダヤ人を助けた人としてイエスの話に登場してきます。

 そして祭司は、ユダヤの宗教と政治の中心、エルサレムの神殿で働く人々で、神と人との仲介者として、人々の罪のために供え物やいけにえをささげる職務に任命された人たちです。レビ人というのは、祭司を生み出す母体となった人々で、レビ族といわれるグループの中からしか、祭司になることはできなかったそうです。いわば、宗教的な聖なる人たちだったのでしょう。その人たちが、道の向こう側を通って行った。本来なら、民を救いへと導くはずの人々が、傷ついた人を助けられず、無視することでさらに傷つけてしまった。半殺しのめにあっている旅人、これは死とか、穢れとかをイメージしますから、祭司やレビ人は、「その人に触れない」ことで、自分たちの宗教性を守ろうとしたのでしょう。

 けれども、宗教的に穢れているとされ、その社会で差別されていたサマリア人、差別されるか、憐れみの対象であるかしかなかったサマリア人こそが傷ついた人を助けたのでした。
 イエスのたとえ話の意外性に、聞いていたこの律法の専門家は驚いたのではないでしょうか。なぜなら、この人は、自分は当然、隣人に施しを与える側、助ける側であると思い込んでいたのではないかと思われるからです。そのように、わたしは助ける側、あなたは助けを受ける側と、固定化された人との関係の中では、けして隣人との対等な出会いや、交わりの豊かさは生まれてこないのではないでしょうか。

 イエスは、この律法の専門家とわたしたちに、「行って、出会ってきなさい」とそっと励ましを与えてくださっているのではないでしょうか。あるとき、わたしたちは、自らの弱さをあらわにされた傷ついた人かもしれない、あるときわたしたちは、善きサマリア人として、誰かの隣人になれるかもしれない、あるとき、わたしたちは、この社会の中で、誰かをさらに傷つけて道の向こう側を行く祭司やレビ人である自分自身に気づかされるかもしれない。その、人と人との出会いの中で、イエスは常に、もっとも弱くさせられた人として、傷ついた人の傍らで、わたしたちを招いておられるのではないでしょうか。人と人との出会いの中に、神の国が始まっていく。みんなが変えられて、共に生きる関わりのなかにこそ、永遠の命があることを指し示し続けておられるのではないでしょうか。
 お互いに助けたり助けられたり、気づかされたり教えられたりする関わりの豊かさ、そこから、平和をつくりだしていく歩みが起こされていくのではないでしょうか。

 たとえ、今を生きるわたしたちの社会、この世界が、憎しみと分裂を生むような大きな力に支配されようとも、キリストによってその壁を打ち破る自由が与えられています。一人ひとり、あるがままに、人間として、出会っていきたい。絶望の中にこそ、弱さを分かちあい、共に生きるという希望が与えられています。

 最後に、週報の裏面に載せていますが、アイオナ共同体の讃美歌集から賛美歌の詩を紹介したいと思います。本当は歌うといいのかもしれませんが、その詩を読んでみます。  ※管理人より:一部を省略しています。

「みんなで輝く日が来る」
 3.弱い人と歩むよ その国では
  共に歩むよ その国では
  きっとそうなるさ
  神の国ではみんなかわるはずさ
(くりかえし)
  それは主イエスが それは主イエスが
  すべて主イエスが 教えてくれたことさ

しばらく黙祷いたしましょう。

※管理人より アイオナの様子は、田中牧子牧師のサイトでご覧になれます。

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